敢えて3月12日


2014年5月に東北被災地巡りをした時に撮影。
敢えてそこで出会った人たちの写真をアップ。
かの震災の悲惨な風景の画像映像はいたる所でアップされているし、
まあそういう写真は他の人に任せるとして…


結局あの当時の惨状は当事者に直接聞くのが一番で、
あれやこれやとごちゃごちゃ考える前に、
まずは自分の足で、目で、耳で、手で、すべての五感を使って感じ取るしかないんだよな。

被災地巡りを地震から3年目に行ったのは単なる偶然だけど、
結果的にタイミングとしてはベターな時期だったのかもしれない。

「地震直後に(被災地に)来た連中は正直迷惑だった…」
「ボランティアと言いながら、すぐに写真を撮るとか不快だった」
「もし去年来てくれたとしても、何も話せなかったと思う」

現実を受け入れるのに「3年はかかった」と仰る方は多かった。


写真を見ていると被災地巡りをしていた時の事をいろいろ思い出すけど、敢えてキャプチャーはつけない。
もしかしたら、また数年後に撮影した写真データを見直して、自分なりの考えをまとめるかもしれないけど、
別にジャーナリストでもないし、義務的にそういうことをするのも無意味なので、今はまだ先のことは考えていない。


普通であればなんでもない、日本の五月の風景なんだけど、
ここが南相馬の夜間進入禁止地域の、無人の人家の鯉のぼりとなると、
その意味はまったく違ってくる。

すれ違う車が一台も無い幅の狭い車道で撮影していたら、
民家から人の良さそうなおじさんが顔を出して、
「ご近所さんが帰ってきたのかと思った…」と仰った。
夜は国が用意した仮設住宅に住んでいると言う。


たった3年で荒れ果ててしまった小学校。その校庭。
あの震災の、特に原発周辺地域の異常さは、
こういう状況が長い間放置されていたところにある。


南相馬の、立ち入り禁止地区前の検問。
当時は地元住民のみが出入りを許されていた。
僕はそのことを理解したうえで、敢えて検問所まで車を走らせた。
長野県警から応援に来た警察官に事情を話したら、検問所横の駐車場に車を誘導してくれて、
警察官が率先して写真撮影に協力してくれる。


被災地巡りの最終日。
飯館村の荒れ果てたホームセンターを撮影していたら警察官に尋問を受ける。
ここでも事情を話したら、こっちが聴いてないことまで話してくださった。
警察官はえてして写真に撮られるのを嫌うものだが、腕章の撮影を願い出たら快く、
いやいや、自信たっぷり、自慢するかのように腕章をカメラのレンズに向けてくれた。



被災地めぐりの最後に出会ったお父さん。
思うことがあったのだろう。

「もうおれ、頑張らないよっ!!」

周りに響くほどの大きな声で、帰り際の僕に叫んだ。





敢えて昨日を避けて、敢えて3月12日にこのことを記す。


コメント

人気の投稿