終止符のつけ方。

2018年第3週、色々な人生の【幕の閉じ方】を見せつけられた一週間だった。
1月15日、有安杏果が突然のももクロ卒業(芸能活動停止)。
1月19日、文春の不倫報道を受け、小室哲哉がけじめの芸能界引退。
1月21日、多摩川にて西部邁が自殺。死体発見。

どの知らせひとつとってもヘビーであり、世間に対する影響は計り知れない。

0歳から芸能活動を22年間続けていた有安が「普通の女の子になりたい」という【わがまま】は、多くの芸能関係者から、
「仕方ないよね」と好意的に受け入れられた。

小室の引退は何故引退せにゃならんのか、部外者にはさっぱり分からないものの、
時が経てば、もしかしたら【芸能界復帰】もありえる訳だから、これは時間が解決する問題なのかもしれない。

しかし、西部の自殺に関してはもうなんと言っていいか、
個人的な見解を申すなら「腹立たしい限り」である。

4年9ヶ月前に49歳で心臓の血管を2本詰まらせ、あと一歩のトコで死に掛けて、
またその一年後に別の血管が99%つまって死に掛けた増駄堂からしたら、
「絶望から逃げるのに、死は一番簡単な卑怯な手段」としか言いようがない。

こっちは生き続ける為に一日2~5箱吸っていたタバコをヤメ、
朝昼晩の自炊、体力調整の畑仕事、周囲からの誤解と偏見と差別に耐え、
それでもまだ生き続けたいし、
これからもっともっと素晴らしいものに出会えると信じ、
「呑気に死んでいられない」のである。


理屈や理想論をこねくり回すのは素人だって出来る。
どんなに頭が良くたって、思想や政治、社会云々を世間に説く輩は、
生きるのが辛くても生き続ける義務があると思う。

表現者が最後に世間に対して出来るパフォーマンスは、
「見苦しくても生き続ける事である」
「その姿を世間に晒す事である」

人生、辛くて辛くて仕方ない時、
自分が壊れる前に【逃げ】ていいと思う。
他人がどんなに笑おうと、自分が生きる為なら逃げてかまわない。

だけど「死ぬなよ」と言いたい。

死んだら終わりなのである。

ある歴史的偉人が「前のめりに死にたい」とおっしゃったらしいが、
僕は最後は布団の中でゆっくり、静かに死んで生きたい。


物語はエンドマークのつけ方で評価は大きく変わる。
芸能界を卒業しようが、引退しようが、
まだまだ表現したいものがあるとしたら、
照れ笑いでもして帰ってくればよい。

でも死んじゃったら「次はない」のである。

今まで描いた自分なりのストーリーが「自殺」で締めくくるとか、
そんなものが世の中のなんの役に立つんだ?

腹立たしい限りである。

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