狭心症で倒れて約5年。
その後、いろいろな事があり、健康を失うとは「こういうものか」という現実をいやんなるほど体験した。
2017年は一年をかけて「これから死ぬまでをどう生きるか」を改めてキチンと模索した。
2018年はその結論を実行する元年であった。

今年に入ってからほぼ毎日ペンなり筆を持って絵を描くようにしているが、
絵に没頭することで健康維持の為の畑仕事が疎かになりがちで、この二つの両立はかなり難しいと実感している毎日である。

今年はツイッターもART関係を強化し、絵描きさんたちをフォローしてみたけど、この1、2週間なんか違和感を感じ始める。
最初は作家さんたちに対しての違和感と思ったんだけど、
どうやらそういうことではなく、自分自身に対しての違和感であった。

簡単にいえば、自分でも気がつかないうちに、ARTに対して媚びよう、擦り寄ろうとしているのではないか?
圧倒的画力のある作家さんたちを見て、知らず知らずのうちに焦りを感じてしまったのであろう。

創作は自分の問題である。
他人がどうの、世間がどうのという事ではない。
あくまでも主体は自分自身の筈だ。

なのに巧い作家を見続けるうちに、いつのまにか【ブレ】始めてしまったらしい。

正規の美術の学校、デザインの学校に通った体験も無く、
三十路過ぎてから真面目に絵を描き始め、
事ある度に絵描きを中断してたけど、
結局これが、僕特有のタッチを生むことになった。
周りにアート系の人がいたら、今の作風には辿り着かなかったであろう。
離れ小島で絵を描いていたら【ガラパゴス化】しちゃった、って感じである。

作品にとって個性とは実に大切であるが、個性だけでは作品は成立しない。
きちんとした技術の裏付けがあるからこそ、
個性が個性として光るんだと思う。

若い頃は人生経験が少ない故に無駄な焦りというものがあり、
実力をつける前に羽ばたこうとする。




19歳の頃、東映演技研修所に通っていた経験があるが、最初の授業で先生が、
「君たちが個性と思っている事のほとんどは【癖】です」と言い切られ、
多くの研修生はその言葉に反発した。
自分は「個性的だから役者を目指したんだ」という、
実は【根拠に乏しい自信】がある連中ばかりだったので、
そりゃ、自分のプライドでもある自分の個性を【癖】と難癖つけられたら、
不快を感じて当然である。
先生のこの一言だけで、数人やめてしまった記憶がある。

しかしよくよく考えれば、
「君たちが個性と思っている事のほとんどは【癖】です」と言われ、
みんなが判を押したような同じ反応をしちゃうんだから、
こいつらの信じている個性ってぜんぜん個性的じゃない。
普通過ぎるくらい普通である。


自分のスタイルを持つとは実に難しいことなんだけど、
ある意味では実に簡単なことでもある。

単に個人の楽しみとして表現活動をする分には、
何をどう表現しようとそれは本人の勝手だけど、
表現を他者と共有しようとした途端にハードルはググッと上がる。



僕の場合、今現在においては、多少の寄り道もしたけど、自分の絵を持つことが出来てラッキーであった。
しかし問題はこれからで、
今まで描いた作品、またこれから描き続けられるであろう作品を「押入れの中に入れたままで良いのか」である。
今まではたまたま運がよくてここまで来たけど、
ここから先の一歩は明確な自分の意志を持って踏み出さなくてはいけない。

きっとこのプレッシャーが早速【ブレ】として現れたのであろう。

自分に向き合うとか、本当にどうしていいのか分からない。
きっと大正解は無いのだし、
細かい正解は銀河の数ほど存在する。

しかしこの数日で分かったのは、
「それでも筆を動かし続けるしかない」という、
絵描きとしては実に当たり前の日常を「するだけ」って事。

難問の答えのほとんどは実にシンプルである。
答えが簡単過ぎて、目の前にあっても気づかないのかもしれない。

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